コソボ紛争の前までは、スケンデライ・セルビッツア市(アルバニアの名前がスケンデライで、セルビアの名前がセルビッツアです)にはセルビア人とアルバニア人が何世代にも渡りそれなりに共存していました。アルバニア人の自治権が奪われ、少数派であるセルビア人が多数派であるアルバニア人を支配するようになっても、個人的には近所づきあいを続けながら、互いの家族の結婚式に呼び合う仲の人々もいたようです。しかしミロソビッチ政権がコソボ以外のセルビア共和国からセルビア人治安警察をコソボに送り込み、アルバニア人を弾圧し始めるにいたって状況は変わり、人々の間は引き裂かれていったようです。そして紛争が終わったとき、もはや両民族は共存を続けられる状況ではなく、セルビッツア市の町に住んでいたセルビア人はすべてミトロビッツア市の北側に逃げざるを得ませんでした。
ミトロビッツアは分断都市として名高く、町の中央を流れる川を境に北側がセルビア人、南側がアルバニア人の町になっています。わたしはコソボに着任して1ヶ月ほどしてから、セルビッツア市に住んでいたセルビア人の指導者であると紹介されたスラビッツアという女性をミトロビッツアの北側に訪ねました。彼女は、小さなアパートに子供3人と母親と一緒に住んでいました。「わたしはあのセルビッツアで生まれ育ったし、アルバニア人の友人も多かった。それなのに、あのアルバニア人のテロリストたち(アルバニア解放軍のこと)がすべてを滅茶苦茶にしてしまった。早く、自分の故郷の町に帰りたいし、先祖のお墓参りもしたい」と話してくれました。
この訪問をきっかけに私はその後も定期的に彼女の元を訪れ、セルビア人の帰還の問題を話し合うことになりました。ミトロビッツアの北に逃れたセルビア人のほかにも、バンニャ村とスーゴロフ村にもセルビア人が残っていました。この二つの村は、数百年にわたってセルビア人が住み続けた村で、まわりをアルバニア人に囲まれるようになっても飛び地のようになって残っており、最後までセルビア警察によってアルバニア解放軍の攻撃から守られ、セルビア軍が撤退した後は、NATO軍より一足先に進駐してきたロシア軍によって守られていました。
私はこの村も何度も訪れましたが、日当たりのよい山あいに小さな教会を中心に村が作られていました。若い村長は、「我々はこの村に何百年も住んでいる。アルバニア人ともこれまでは仲良くやってきたが、今回の戦争を経て、我々はもうこの村から出ることができなくなった。一歩でも村を出ると子供までもが石を投げられるんだ。ひどいことをしたのは村の外から来たセルビア治安警察であり、我々村人ではない」と話してくれました。しばらくたったある日、事件がおきました。ミトロビッツアの北に住むセルビア人とバンニャ村に住むセルビア人をつないでいる定期バスが何者かによって銃撃を受け、セルビア人乗客数名が負傷したのです。国連警察は、当然アルバニア人過激派による襲撃事件と考えて調査を始めました。ところが、アルバニア人は皆、あの事件はアルバニア人の評判を落とすことを目的としたセルビア人の自作自演の襲撃だったと言い張るのです。いくらなんでも、それはないでしょうというのが我々の見方でしたが、結局、犯人と特定することはできませんでした。あらためて、民族対立の激しさを感じさせられた事件でした。
(文:井上 健)
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