前回書いたように、私が最初にしなければならなかった仕事は、コソボ解放軍の権威に対抗して国連の権威を確立することでした。そのために、どうしても解決しなければならない問題は、アルバニア国旗の取り扱いでした。コソボは国連が暫定統治しており、国連の中立性を確保し民族和解を促すためにも、コソボで公式に掲げられる旗は国連の旗だけである、というのが我々の立場でした。だから、市役所の前に掲げられているアルバニア国旗は、どうしても降ろしてもらわねばならないものでした。スケンデライ市に赴任してまだ日の浅かった私は、セルビアの旗を掲げるわけではないのだし(正式にはコソボはまだセルビア共和国の一部です)、国連の旗なら問題ないだろうという程度の認識でした。この認識が非常に甘いものであったことを説明するには、スケンデライとコソボ解放軍について知っておく必要があります。
スケンデライは、歴史的には常にコソボアルバニア民族主義の中心地でした。コソボの平和的独立を唱え、後にコソボ自治州の大統領となったイブラヒム・ルゴバの穏健な平和主義に飽き足らず、コソボの武力解放・独立を目指した人々が結成したのがコソボ解放軍です。コソボ解放軍についてはいまだに謎に包まれている点が多いのですが、現在、解放軍の創設者であり「伝説上の司令官」として人々に讃えられているのがアデム・ヤシャーリ(1955-1998)です。彼はスケンデライ市のプレカズ村に生まれ、コソボアルバニア民族主義のうねりの中でコソボ解放軍を結成し、果敢にセルビアに武力闘争を挑みました(セルビア人から見れば、彼はテロリストの親分でしかないのですが)。しかし、1993年3月、大挙して彼の生家を囲んだセルビア軍と警察を相手にヤシャーリ家の一族郎党が1昼夜戦い続けたのち、衆寡敵せず、ついに彼と彼の一族28人を含む総勢58人が討ち死にをしたのです。このとき折り重なる死体の下にいたために奇跡的に助かった唯一の生存者である彼の姪の話によると、勇猛果敢なヤシャーリは、銃を撃ち続けながら最期の瞬間までアルバニア国家を歌っていたといいます。
彼のこの勇気と、彼が女・子供を含む一族郎党の命までも犠牲にしたという事実(アルバニア人はことさらに家族・親戚を大切にします)によって、彼はコソボアルバニア人のヒーローとなったのです。今でも、このときの襲撃によって蜂の巣になった彼の生家は、そのまま遺産として保存されており(日本人が原爆ドームを遺跡として保存しているのと似ています)、コソボ全土から修学旅行の生徒たちがやってきて、壮絶なヤシャーリ一家最期の物語に涙をぬぐって愛国心を奮い立てているのです。
この事件からわずか1年後、戦後初めての外国人としてスケンデライに住み始めた私は、こういった背景を何も知りませんでした。ところが、彼の死後もコソボ解放軍はいっそう勢力を伸ばし、スケンデライには解放軍の第一軍管区が置かれていたのです。そしてアデム・ヤシャーリの同士を任じて、解放軍を指揮していた男がサミー・ルシュタクでした。私がスケンデライに赴任後しばらくして、ある村を回っていたときに、武装して迷彩服を着たやくざのような荒くれ男たちを従えて闊歩していた彼と偶然出会いました。私が挨拶をすると、ものすごい力で私に握手をしてきたことを今でも覚えています。
(文:井上 健)
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