前回書きましたように、家を焼かれた6万5千人の市民にどうやって冬を越させるかが、私の市長としての最初の課題でした。日本政府から住宅修復プロジェクトの資金をいただき、修復資材をコソボ内外の業者から買い付ける手はずは整えましたが、援助というものは金や物を用意するだけではだめです。本当に援助を必要としている人々に、必要なものを必要なときに届けなければなりません。そして提供した援助が当初の目的を達したかどうかをきちんと確認し、資金の提供国(ドナーといいます)に報告しなければなりません。流行の言葉で言えば、アカウンタビリティということです。さらにドナー(この場合日本政府)は、自分たちの援助が受け手に認知され感謝されることを望みますから(いわゆる顔の見える援助です)、そのための手立ても考えなければなりません。そこで私は、住宅修復プロジェクトの運営実施をアドラ・ジャパンという日本のNGOにお願いし、プロジェクトの進捗をモニターするために、20人の日本人国連ボランティアに来ていただくことにしました。
こうして冬も間近に迫ってきた1999年の11月には、20代から60代までのさまざまな経歴の日本人ボランティアがコソボに集まりました。プロジェクトの予定はすでに遅れ気味でしたが、彼らの活躍は目覚しいものがありました。彼らが活動を始めてすぐにわかったことは、村への資材の運び込みと村人たちの作業を単にモニターするだけでは、予定通りには進まないということでした。こういう場合でも、日本人は「契約書に書かれていないからこんな仕事はやらない」などとは言わずに、臨機応変に独自の判断で行動してくれます。どの村で何軒の家を修復するか、ということは事前に調査してある程度決めておいたのですが、すべての家屋を修復できるわけではなく、直した家には部屋数に応じて複数の家族が同居しなければなりません。ですから誰の家をまず直し、どの家族が同居するのかということで揉め事が起きます。また実際に家を修復する作業はそこに住む人が自分たちでやらなければならないのですが、母子家庭や老夫婦だけの家庭では、木材やレンガや屋根瓦などの資材をもらっても独力では家の修復はできません。また雪が積もってきて一般車両では村に入れなくなると、国連PKOの軍隊に大型トラックをお願いしなければなりません。こういった様々な問題を日本人ボランティアは力を合わせて一つ一つ解決していったのです。
こうして最終的には私の市だけでも931軒(近隣の市を合わせると1595軒)の住宅を修復し、8653人の人々(近隣の市を合わせると1万7934人)に冬を越す部屋を提供することができたのです。そしてこれは特筆すべきことだと思いますが、スケンデライ・セルビッツア市ではとうとう一人の凍死者も出さずに冬を越すことができたのです。もちろん一番がんばったのはコソボの人々ですが、日本政府からの資金援助と日本人ボランティアが果たした役割もきわめて大きかったと思います。このプロジェクトで修復した家屋には日の丸のついたプレートをつけたので、いまでも村に行くとどの家を修復したのかがすぐにわかります。そしてそこに住んでいるコソボの人々は、彼らが最もつらい思いをした戦後最初の冬にやってきて彼らの家の修復を手伝ってくれた日本人ボランティアのことを忘れずにいるのです。人々の命を救うこと、それが人道援助です。
(文:井上 健)
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