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コラム 08月15日更新

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日本とユダヤのハーモニー

第14章 菊花紋の真相

 自衛隊が遂にイラクに派遣されることになり、隊員の安否が気遣われています。しかしイスラム教原理主義のリーダーが「日本の自衛隊は他国の占領軍と違い、イラク市民を援助する為に来ているので害を及ぼさないように」と公式見解発表をしているように、イラクにおいて日本は何かしら別格の存在であるようです。その理由は、天皇がスメラミコト、「シュメールの開拓者(前述)」と呼ばれている通り、日本文化の源流にはシュメールがあり、地理的には現代のイラクに相当するからではないでしょうか?すなわち前2000年、歴史から消え去ったシュメールの末裔が古代日本の文化に関わっていたと考えられるのです。その証の一が天皇家の菊花紋です。
エルサレム宮殿に刻まれている16菊花紋
エルサレム宮殿に刻まれている16菊花紋

 皇室の表紋として著名な菊花紋は、延命長寿の効用を伴う延年草とも呼ばれる菊の花を原型に、その花弁が放射状に並んで日の光にも例えることができることから、日の出ずる国家の象徴である天皇家のシンボルとして創作されたと言われています。平安時代では「いろは歌」が普及するのと時期を同じくして、菊花紋は特に文様として流行し、宮中では年中行事として観菊の宴が始まりました。そして鎌倉時代、後鳥羽上皇の時に菊花紋が皇室の紋章として正式に取り入れられたのです。その後、武家のシンボルとしても足利、織田、豊臣氏等が家紋として使用し、江戸時代においては複数の大名や神社仏閣の紋としても使われました。挙句の果ては町家の商標等にも濫用され始めたため、明治維新、王政復古の元年に直接禁令が出され、許可なく物品へ御紋を描くことが禁止されました。そして明治22年に菊花中心の円の直径と菊花全体の大きさの割合が3対38に定義され、大正15年に発布された皇室儀制令により、菊の花は16葉、その花弁は8重菊の複弁、弁のはしの弧は32と定められたのです。今日では菊花紋は皇室の家紋として天皇旗や天皇御料の乗り物、宮殿の建築物、食器や礼服、及び印紙やパスポート等、幅広く利用されています。

 さて、この菊花紋は平安時代よりも更に昔、紀元前より中近東に流行しており、シュメールにおいては王朝を象徴する家紋として使われていました。例えば紀元前2300年頃シュメール・アッカド王朝の時代に建造されたナラム・シン王の戦勝碑には菊の紋章に大変類似した文様が描かれています。これがシュメール王朝の菊花紋の原型となったとも考えられます。古代文明において神聖文字を図案化したとも思われる紋章は、自然界に住む神々と人間との関係を象徴しているため、菊花紋は当初、天を照らす太陽の神のシンボルとして考案され、次第に菊の形状に整えられていったと推測できます。またシュメール王朝の都であったバビロン遺跡には前600年に建造されたイシュタル門が残っており、これには王家の紋章として多くの菊花紋が描かれていますが、それは正に日本の菊花紋と全く同形です。そして驚くことに、イスラエルの首都エルサレムの中心にある神殿の城壁にも菊花紋が見事に刻まれているのです。

 シュメールとイスラエル、そして日本が菊花紋を共有している事実は単なる偶然ではなく、古代日本の歴史を刻んだ大和の民のルーツがイスラエルに、更に歴史を遡ればシュメール文化に由来していたからに他なりません。世界最古のシュメール文化は、前8世紀、国家を失ったイスラエルの民により高天原を経由して大陸を渡り、日本に到来していたのです。


(文・中島尚彦)

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