成田シティージャーナル===============
H19年03月15日発行 第65刊 毎月15日発行 購読無料
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成田の将来と日本の未来を見据えて撃つ!
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最先端オピニオン紙
発行:ネットハウス
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かつて類を見ない国内最大級のマラソンイベント「東京マラソン」。日本で開催される多くのレース名には「国際」という言葉が含まれていますが、「東京マラソン」にはその必要はありません。ニューヨークやシカゴ、ベルリンと同様、世界が認知する国際都市であるからこそ「東京マラソン」と言うだけで世界最大級の市民マラソン大会となりうるのです。2月18日、遂にレースの幕が落とされることになりました。
皇居や銀座を中心とする都心のメジャーな幹線道路を思う存分走ることができる初めてのチャンスであり、東京生まれの筆者にとっても、第1回の東京マラソンへの参加は人生に一度しかないビッグチャンスです。3万人の出場枠に対して10万人の応募という近年まれに見る熾烈なゼッケン獲得抽選に幸いにも当選!これまで海外の大会でしか走ったことのない筆者が、10回目となるマラソンを遂に日本の大舞台にてチャレンジすることになりました。マラソンランナーにとって、生まれ故郷で走ること以上の幸せはありません。
走った距離は決して裏切らない!
東京マラソンの参加が決まってからレースまでおよそ5ヶ月余り。その限られた期間でのトレーニングで最善の結果を出すには、計画性をもって周到に準備することが重要です。これまでの自己ベストは半年前にロスアンジェルスで達成した3時間16分。最後の2kmでひどく苦しみ、完全燃焼して燃え尽きた体験を振り返りながら、自己の限界を見極めた上で、どこまで更にステップアップできるか、その可能性を追求しました。
マラソンで勝利する為には練習量を増やすしかありません。「走った距離は裏切らない」という言葉は真実であり、走り込めば走り込むほど体のメタボリズムが長距離走に順応してくるようです。それ故、まず走る量を増やすことに徹し、以前にも増して車を運転することを避け、10km圏内の目的地へは極力走ることにしました。また、都内での仕事には機会ある度にマラソンの練習を兼ねて走って出掛け、毎週末に子供達をサッカー練習場に連れて行く度に、1周5kmの皇居周辺を時間の許す限り何周も走ることにしました。皇居はランナーのメッカで、日頃から大勢の人達が走っている為、どんなに疲れていても不思議とモチベーションが高められ、いつの間にか一生懸命走ることができます。
極めつけは、持久走と言われる長時間走の導入です。レースで想定する記録と同じ時間をノンストップで走り続けるのが持久走の目的です。走るペースは1-2割落としますが、それでも体の新陳代謝のリズムをレースに合わせ、耐久力を養うことができます。レースの終盤、必ず足が棒になって止まりそうになりますが、その苦しい時にどうやって足を動かし続けるか、体験を兼ねて体に教え込むのが持久走の醍醐味でもあります。その為、1周17kmの河口湖を2周半走ったり、皇居を7周走ったりして、体を慣らしていきました。また、今回から初めて、週3回、欠かさず腹筋と背筋のトレーニングを取り入れ、腹筋、背筋運動共に150回まで反復できるようにしました。マラソンには強い背筋が不可欠であり、背筋をピンと伸ばして前傾で走るとスピードが自然と出ます。また腹筋こそ、レースの終盤で壊れてぼろぼろになった足を持ち上げ、前に出して走り続ける為の最終手段です。この練習プランで準備は万全です。
目標は3時間5分に決定!
東京マラソンのコースは、最初の5kmがゆるい下り坂、その後は殆ど平坦という、いわゆる高速コースです。復路が長くゆるやかな上り坂となるロスアンジェルスよりも楽なので、これだけでも記録は3分短縮できるはずです。また沿道で声援を送ってくれる100万人以上の観衆の存在を考えると、その応援から力を得て、2分はタイムが早くなると踏みました。また1kg体重が落ちれば3分早く走れるというランナー仲間での説を信じて更に4kg体重を落とし、遂に30年前の自分の体重と同じ61kgまでの減量に成功したのです。これで更に5分はスピードアップできると見越しました。そして以前よりもトレーニング量を増やしたことで、少なくとも合計で12分は自己ベストを更新できると確信したのです。
しかし、マラソンは欲をかいて自分の力以上に記録を伸ばそうとすると、正に地獄の苦しみの「失速」という罠が待ち構えていますので要注意です。それでも今回は3時間10分の壁は確実に切れる自信がありました。それ故、死んでも10分を切ることを公言した上で、自らの目標タイムを3時間5分と決めたのです!
何故、東京マラソンの日だけが雨で寒い?
今年は暖冬。2月も東京は殆ど毎日が快晴。観測史上初の、冬に雪が一度も降らないという異常気象の中、暖かい気候で走るのが大好きな自分にとっては最高の環境が訪れると思っていました。ところが大会一週間前の天気予報では、2月18日は何と雨!しかも気温は5度という予想。まさかと思いつつ、毎日のように天気予報とにらめっこをしながら危機感を募らせ、レース当日に着るランニングウェアーも、ランニングシャツはやめて半袖とし、肘と腕を暖かくカバーする腕巻きも装着することにしました。
レース当日の朝、5時に起きると案の定、雨が降っていました。しかも風が時折強く吹き、真冬を感じさせる寒さです。6時30分には一緒に走る仲間と共に、朝食として熱量の元となるパンケーキをごっそりたいらげ、腹ごしらえをした後は着替えです。とにかく走り始めるまで体が冷えきらないように温かく保たなければならないので、ランニングウェアーの上にはベストを羽織り、その上に厚いウォームアップ・スーツを着て、更にウィンドブレーカーを着ることにしました。これなら雨に濡れてもそんなに寒くはありません。
さあ、いざ、出陣!新宿都庁のスタートラインに向けて出発です。レースのスタートは9時10分ですから、8時30分頃まで新宿都庁周辺に辿り着けば十分、と踏んでいた自分が甘かったのでしょうか。JR線で8時25分頃に新宿駅に着き、駅周辺のただならぬ雰囲気の中、都庁に向かって新宿西口の地下道を歩いていると、突然遠くから「8時30分で荷物の預かりを終了します!」というアナウンスが聞こえてきたのです!東京マラソンはスタート地点とゴール地点が違うため、選手の荷物を番号付の袋に入れてトラックで輸送することになっています。つまりここで預けないとゴール地点で自分の荷物が受け取れないのです。所持品には携帯電話もあればお金もあるし、これはまずいとあせりながら、大勢のランナーでごった返す中、荷物トラックを探して走り回り、やっとのことで自分のゼッケンが指定されているトラックを見つけ出して荷物を預けることができました。
とたんに今度はスタート地点から「8時45分まで並ばれないと最後尾からのスタートになります」とのアナウンス。これにはさすがに驚き、怒りを隠せませんでした。自分のスタートポジションはDセクションで、かなり前の方です。雨が降っているのでぎりぎりまで雨宿りをしたかったのに、どうもそれが許されないようです。マラソンレースで、しかも雨がザーザー降る寒い中、スタート前に選手を30分近くもずぶ濡れで立たせるなど聞いたことがありません。それでも仕方なく都庁玄関前のスタートセクションで他の選手と一緒に「立ちんぼ」をすることにしました。既に膨大な数のランナーが並んでいましたので、雨の中でも身動きさえとれません。「この状態でずっと待てとは、酷だ!」と思いつつもどうしようもできず、摂氏5度という真冬の寒さの中雨に打たれ続けたのです。
トイレに行けない東京マラソン!
実はこの軍隊じみた「立ちんぼ」状態の最大の問題はトイレだったのです!都庁周辺には400基の簡易トイレが設置されると聞いていましたが、1000基あっても大袈裟ではありません。3万人のランナーが参加し、その大半はスタート直前にトイレに行かなくてはレースを走りきれないからです。しかもこの寒さで余計トイレが近くなるのは当たり前です。ベルリンのように周辺に森林がある訳でもなく、駅からの地下道に簡易トイレが設置されていた訳でもありません。その結果、都庁周辺ではこれまで見たこともない長蛇の列が簡易トイレの前にできていました。
これまで9回海外の国際マラソン大会を走り、貴重な体験を積んできましたが、大勢のランナーが窮地でどうするかを見てきた教訓は、こういう切羽詰った情況でも活かされました。エリートランナーにとってはトイレを我慢したままスタートして、レースの途中でトイレに行く、ということは考えられません。とにかくスタート直前に出し切るしかないのです。秘策は2つに1つ。まず一番簡単なのは、その場でしゃがみこみ、小水を道路に流すことです。これはさすがに目立つため、どうも日本人にとっては勇気のいることです。次の秘策はさりげなく漏らしてしまうことです。マラソン大会ではウォームアップ・スーツはスタート地点に脱ぎ捨てるもので、通常はそのスーツが寄付されたりします。しかし今回は雨でどうせ濡れてしまう為、それを尿瓶の役割として立ったまま丸めた自分のスーツに向かって周囲にわからないように用を足すのです。こうすれば道路にたれ流しになることもありませんし、変な目でみられることもないでしょう。但し、後でそれを拾った人がどう思うかは全く別次元の話です。
スタート数分前には石原都知事の元気一杯の挨拶があり、その直後、突然真横の歩道に小出監督が雨に濡れながらも、手を振ってランナーにエールを送っている姿をみかけました。そして遂にガンの音と共に、3万人のランナーが雨と風、極寒の中を一斉に走り始めました。再び過酷なマラソンドラマの幕が切って落とされたのです。
(…次号へ続く)
(文:中島尚彦)
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世界の片隅から
-国連職員の仕事- 6 コソボの生活
今回は、大変厳しかった当時のコソボの生活環境を紹介します。私が戦後初めての外国人としてスケンデライ・セルビッツア市に住み始めたとき、水道は完全に断水していました。そのため、庭に井戸のある家は井戸水をくみ上げ、なければNGOが週に二度ほど給水車で運んでくる水をもらいに行きます。幼稚園児くらいの子供までがペットボトルに水を入れて運んでいました。
電気はよい日で一日数時間だけ。電話もなし。もちろんインターネットもなしです。電気は本当に気まぐれな時間にしか来ません。だから当時の我々は、天気予報ならぬ電気予報をしていました。「明日の電気は、午前中は来ますが、午後は時々停電、夕方から完全に停電でしょう。ですから夕食は早めに作っておきましょう」という具合です。実際ほぼ毎夕、電気が必要なときになると停電していました。私のオフィスも2年目には発電機が設置されましたが、初めの年はほとんど電気なしでした。午後4時を過ぎるともう暗くなるので、私たちはオイルランプとろうそくの灯りで一日のまとめと翌日の打ち合わせをしていました。今の日本ならばランプやろうそくはロマンティックな小道具ですが、当時の私たちにとっては仕事と生活の必需品でした。それでも停電のときは6時ぐらいには真っ暗な道を歩いて帰宅します。
それから、コソボの人々は薪を燃やすストーブで夕食を作るのですが、私は面倒なので日本にもある小型のガスコンロを使ってお湯を沸かし、よく一人でスパゲティをゆでて食べていました。まるでキャンプ生活です。8時を過ぎると真っ暗な家の中で何もすることがなくなり、寝るしかありません。冬のコソボは夜になると外気は氷点下15度から20度くらいにまで下がります。暖房のない家の中も相当な寒さです。私は寝袋に入り、その上から毛布を何枚もかけて寝ていました。夜8時に寝ると夜明け前の4時頃には目が覚めるのですが、電気がなければ起きても何もすることがありません。真っ暗な家の中で一人寝袋の中で目を覚まし、厳寒の中でじっと夜明けを待っているのは実につらいものでした。近所に皆で家を借りて住んでいた日本人ボランティアの生活も似たようなもので、朝起きたら部屋に干していた洗濯物がバリバリに凍っていたとか、庭の井戸水で頭を洗ったら髪の毛が瞬く間に凍りついたとかいう話ばかりしていました。特に困ったのは風呂です。湯船どころかお湯の出るシャワーすらないのです。仕方がないので鍋いっぱいのお湯を沸かし、それを冷水と混ぜてバケツにいっぱいの湯を用意します。そして素っ裸になって空っぽのバスタブの中で、バケツいっぱいのお湯だけで全身を洗うのです。どんなにすばやく済ませても、バスタブから出たときには体中が冷え切っていたものです。
ニューヨークの本部で働いている国連職員の生活は、東京の生活と変わらない快適なものですが、人道支援や平和構築の最前線で働いている現場の国連職員の生活は、世界中どこでもこのようなものです。ですから、こういった生活が我慢できるというだけでなく、むしろ不便な生活をそれなりに楽しむくらいの余裕がないと現場の仕事はできません。それでも当時のコソボは治安がそれほど悪くなく、身の安全にそれほど気を使わなくてもよかっただけ、ましな方だったと言えるかもしれません。
(文:井上健)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄イオン周辺が回転寿司のバトル地域と化している。その強豪3店舗を3ヶ月にわたり検証。寿司の味や価格、店の雰囲気だけでなく、個別注文ができるか、日々のお奨めメニューがあるか等を評価の対象とした。
「やまと」の大繁盛に対抗して、数年前に立ち上がったのが、空港街道沿いの「スシロー」。オープン当初より家族連れの人気が根強く、とにかく安くておいしい、との噂がしきりだ。早速訪ねてみると、客席からは寿司を握っている職人を一人として見ることができず、コンベアに載せられて動いている無数の寿司だけが目に付く。この店の人気の秘訣は、全種類一皿105円という太っ腹価格。無論、大とろ等の高級ネタはメニューに見あたらないが、期限限定で中トロ等が登場する。特注も可能で、インターホンが各テーブルに設置されている。オーダーして出来上がった寿司は、これまたコンベアに載せられて運ばれてくる。早速オススメの南鮪中とろにトライ。「極上1貫」ということだが、値段を考えればあたり前。味は「やまと」に相応して、かろうじて合格。次にこはだを特注すると、残念なことに「当店では取り扱いがない」とインターホンからの返事。仕方なく〆さばで我慢することにしたが、出てくるまでかなり待たされた。安さと豊富な種類のネタがスシローの醍醐味。しかし店内に寿司職人の姿が見えないだけに、寿司屋の雰囲気など気にもせず、回ってくる寿司だけを食べて満足できる人にしかお勧めできない。
総合評価 星2つ半
あきんどスシロー 成田店
千葉県成田市ウィング土屋112 0476-24-7637
(文:中島尚彦)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄福島県民謡と言えば、「エイヤー」と甲高い声で始まる「会津磐梯山」が有名です。その名曲に含まれるメロディーは東山温泉周辺で唄われていた盆踊りが源流であると言われており、唄に合わせて人々が夜通し、熱狂的に踊り明かすことでも知られています。この「会津磐梯山」は、唄の合間、一節ごとに「スッチョイ、スッチョイ、スッチョイナ」と叫ばれるお囃子が含まれます。この囃子詞にもヘブライルーツが潜んでいます。
既に解説した通り、ヘブライ語で
(スッス)は「喜ぶ」、
(tso'-ed、チョイ)は「前進!」「いざ進め!」です。これら2つの言葉が組み合わさって「スッ(ス)チョイ」となり、「喜び勇んで進め!」という意味になります。つまり「スッチョイ」とは、日本語の「エイ、エイ、オー!」の雰囲気に類似した掛声であり、「喜びの気勢をあげて前進!」を意味します。
「会津磐梯山」以外にも福島県には多数の民謡が存在します。特に福島の相馬地方は「民謡のふるさと」あるいは「民謡の宝庫」とも言われている程、全国的に著名な民謡が沢山あります。例えば手拍子に合わせて囃される「相馬甚句」、踊りながら唄われる「相馬盆唄」、民謡軍歌として著名な「相馬流れ山」、家を建てる時に唄われる「相馬土搗唄」、手を叩いて囃される「相馬二遍返し」等が挙げられます。
中でも「相馬二遍返し」と呼ばれる民謡のルーツは、羽黒山神社での月例祭で信者が唄った「羽黒節」にあると言われており、掛け合いで唄われながら広まった民謡です。そしていつしか、宴会、酒盛の席では必ずと言ってよいほど唄われるまでに民衆に受け入れられ、そのお囃子も自然と覚えられていったのです。この囃子詞には他に類を見ない異例の発音が含まれています。
この唄の中で繰り返し唄われる囃子詞は、「ハー、イッサイコレワイ、パラットセ」です。早速ヘブライ語で検証してみましょう。「ハー」は前述したとおり、ヘブライ語で「見よ!」という感嘆詞です。「イッサイ」は旧約聖書に登場するイスラエルの王、ダビデの別名「イッサイ」からきているようです。「コレワイ」は、「声」の意味を持つ
(コル)をルーツとした、「〜の声」を意味する
(コレヤ)の発音が多少訛って「コレワイ」になったと考えられます。すなわち、「イッサイコレワイ」とは、「ダビデの声」の意味になります。「パラットセ」は「パラット」と「セ」という2つのヘブライ語から成り立っています。ヘブライ語で
(パラー)は「大変優れた」を意味します。その言葉をルーツにした
((ニ)パラット)は、救いや裁きから逃れる救済の意を含めた「素晴らしい御業」という意味を持っています。そして「セ」は「喜ぶ」の「サ」が訛ったものであり、囃子詞では「サ」とも「セ」とも聞こえる場合があります。つまり「パラットセ」は「素晴らしい(神の)御業を喜べ!」という意味になります。
すると「ハー、イッサイコレワイ、パラットセ」という日本語では全く意味を持たない囃子詞が、いつの間にかヘブライ語では「注目せよ!ダビデの声、そして神の素晴らしい御業を!」という信仰告白の意味を持っていることがわかります。福島県を始めとする東北地方は民謡の宝庫であり、そこにはヘブライのルーツが眠っていたのです
(文:中島尚彦)
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あじ彩 料理長 斎藤渉の直伝レシピ
〈第1回〉子柱、きゅうりのおろし酢
料理長より一言…
小柱のぷりぷりした歯ごたえと、甘味を、スッキリ酢の物にまとめてみました。
・八方酢はひと煮立ちさせ、冷ましておきます。
・きゅうりは縦六つ割りにし、種の部分をそぎ落とし1cmに切ります。塩水でしんなりさせ、水気を十分に切ります。
・子柱は薄い食塩水でさっと洗って水気を切り、酢をふっておきます(写真1)。
・大根おろしは万能こし器に入れ、流水でさっと洗い(写真2)、水気を絞ります。
・大根おろしに八方酢を加え混ぜておろし酢を作り、子柱、きゅうりを加えて均一にあえ(写真3)、器に盛ります。
材 料(2人分)
子柱………………80g
酢………………小さじ1
きゅうり……………1/3本
塩(塩水用)
八方酢
だし汁…………………小さじ8
酢………………………小さじ2
みりん…………………小さじ1
薄口しょうゆ…………小さじ1
大根おろし…………………100g
(文:斎藤渉)
PROFILE
斎藤 渉
(さいとう わたる)
1965年千葉県生まれ。
高校卒業後、東京人形町「京樽」に入社して料理の世界に入る。
上方ずし、すし懐石を学んだ後、日本料理を幅広く修業するために「津田沼グランドホテル」に入社。
その後、数々のホテルや料亭において、岩崎清氏(現、渋谷エクセル東急ホテル「日本料理 旬彩」料理長)、黒田廣昭氏(現、「なだ万」ホテルニューオータニ店料理長)などのもとで研鑚を積む。
その後、成田「季節料理 彩季」、松戸「割烹 しの田」の料理長を務め、現在は成田の命泉 大和の湯 内「あじ彩」総料理長。
著書多数。
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かもねぎの
COME ON MUSIC ! ! 61 バランスボールとリズム感
NCJ読者諸氏はご存じないでしょうが、私は肥満です。別にコンプレックスではないのですが、健康にも悪そうなのでダイエットをしています。といっても週に1〜2回5〜10km走り、プールで30分くらい泳ぐ程度です。夜もなるべく食べ過ぎないようにしています。ただギターの練習もあるので、ダイエットと両立できる方法は無いか思案していました。まさかギターかついで走るわけにはいかんし。
と、部屋の片隅を見ると引越しの際に買ったバランスボールが・・・。
「これに座りながらギター弾けんかな??」
ほんの思いつきでしたが、驚いたことに、下半身を動かそうとバランスボールでリズムを取ると、運動はもちろんリズム感の練習にも有効だということが分かりました。私はリズム感がそれほどいいほうではありません。特にメトロノームの音をリズムの裏でカウントして演奏する練習がどうしても出来ませんでした。リズムを裏で感じるということは音楽をやる上では非常に大切で、音楽講師の方などから教育を受けているプレイヤーは子供の頃からみっちりとやっていることと思いますが、いかんせんギターを弾いて20年。常に我流の私はこの「裏でリズムを感じる」ということが苦手でした。
しかしバランスボールに乗って練習の二日目。ボヨンボヨンとおしりでリズムを取るタイミングがずれて、メトロノームの音が裏返ってしまいました。そのときです。今まで出来なかった「メトロノームのクリック音を裏で感じる」ということが突然出来るようになったのです。中年男が部屋で一人、バランスボールにボヨボヨ乗りながらギターを弾く様は滑稽ではありますが、今まで出来なかったことが突然出来るようになるのは快感です。
ところでカモネギはバランスボール・ギターで果たしてダイエットできるのでしょうか?神のみぞ知る??
ギタリスト加茂尚弘
連絡先 0476-24-6777(ネットハウス)
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未病を治す 横山瑞生
第29回
戦争ほど無意味なものはありません。国民大衆の財産や生命を奪うばかりか、文化を破壊し、精神活動も無視されてしまうのです。
1937年7月7日に始まる日中戦争は1945年に終結するも、国交断絶は1972年9月29日、時の日本国、田中角栄首相の日中共同声明まで続きました。平和が戻ると全体主義が解かれ、自由が保障されると、個人の多様な要望も伸びやかに発展します。この声明を契機にして、日中の交流は堰(せき)を切ったように盛んになったのです。
日中共同声明調印の数年前から、中国伝統医学(「中国医学」「祖国医学」と中国内では呼称することもある)を学んでいた私は、逸早(いちはや)く中華医学会の招聘(しょうへい)を受けました。1973年11月のことでした。実務協定がまだ締結されていなかったこともあって、中国へは香港経由で入境しなければなりませんでした。香港から汽車で
を経て広東省の都・広州へ向かったのです。以下北京、武漢、南京、上海、杭州の医療機関、教育機関(大学、中医学院、小学校)各種の工場、人民公社を参観、と学術の交流を重ねました。その体験を今回は記し、かつては漢方医学と我国で呼称された医学が、いかように中国で発展しているかをお知らせしたいと思います。私は鍼灸医学を通して治療に当たっていますので、特にこの方面から報告します。
1949年10月1日に新中国が誕生して以来、中国伝統医学(中医学)と西洋医学(西医)を同等に扱い、更に中西医学の結合を目指して、第三の医学を創造することを国是としました。こうした方針に対して成果が挙って来たのです。
その一つが「鍼麻酔」という新事象です。一般に麻酔とは、薬剤または寒冷刺激を作用させて一時的に知覚を鈍麻・消失させることで、外科的手術の際に用いられます。必要に応じて全身と局部麻酔とがあります。今日では疾病や症状に伴う疼痛を和らげる目的でも用いられています。
鍼麻酔は文字通り、鍼を穴位(ツボ)に刺針して、身体の局部の主に痛覚を麻痺させるか鈍麻させ、外科手術する目的に用いられる方法です。
これまで鍼治療というと、疾病や症状の治療または予防を主として用いられて来ましたが、鍼治療は病症の和痛(鎮痛)や防痛に、殊の外、著効をみることは広く世間に知られています。この経験からもっと強烈な鎮痛効果を挙げることが出来ないだろうか。和痛・防痛・麻酔へと三段論法を用いて、試行錯誤を繰り返し、ついに鍼麻酔の成功が導かれたのです。次号へ続く。
PROFILE
横山 瑞生
(よこやま ずいしょう)
1939年
茨城県常陸大宮市に生れる。
1964年
東京高等鍼灸学校卒業、在学中から大塚敬節氏に師事し漢方を学ぶ、後小川晴通氏に師事し鍼灸を学ぶ。
1971年
中国医学研究協会設立に参画。
1973年
中華医学会の招聘で訪中、鍼麻酔、耳鍼療法学など我国に最初に紹介した1人。現在、日本東洋医学会会員、日中医療普及協会会長、新宿鍼灸師会会長、日本ホリスティック医学協会常任理事、一本堂鍼灸療院院長などの傍ら国内外の後進の指導に当たる。
著訳書
『カラー版鍼灸解剖図』『最新中医針灸穴位掛図』『針灸経穴辞典』『針灸寄穴辞典』『アレルギーはツボで治る』『耳針療法掛図』ほか多数。
連絡先
東京都新宿区本塩町10 四谷エースビル101
一本堂横山鍼灸療院 電話 03(3359)6693